読書ノート「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」エマニュエル・トッド

以下すべて第3章ホモ・サピエンスの最終部分からの引用(154−155頁)

 

「…集団の一体性は、他の集団への敵意に依存する。内部での道徳性と外部への暴力性は機能的に結合している。したがって、外部への暴力性のあらゆる低下は、最終的には、集団内で道徳性と一体性を脅かす。平和は、社会的に問題なのである。

 

…肝心なのは、どの集団にも、他の諸集団との関係に依存しない絶対的なアイデンティなど存在しない、ということを理解することなのである。…ホモ・サピエンスという種において、集団のアイデンティティは常に相対的である。」

 

ホモ・サピエンスは互いに戦い合う種ということか…。

 

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忍城

12月5日(日)。曇天、昨日より一段と冷え込んだらしいが、徐々に気温が上昇。井の頭街道、環七、新大宮バイパスを使い、車で忍城のある行田へ向かう。忍城周辺はとてもきれいに整備され、水鉢に切り花が浮かべられ、好印象。印象が良かったので、街の中心部で昼食を取ろうと歩き回るが何も無し。こんなことなら、せめて行田市博物館に入れば良かったと後悔。

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百蔵山、扇山

12月4日(土)。この冬一番の冷え込みらしいが、風が強くなく、寒さをあまり感じない。8時半前に下北沢から井の頭線に乗り、高尾駅からJRへ乗り継ぎ。思いの外混雑しており、JR藤野駅辺りでようやく着席。猿橋駅で降り、登山口まで徒歩で舗装路を進む。登山口の近くに市営の運動場があり駐車スペースが余裕である。道路が込まなければ車でアクセスした方が良かったかもしれない。11時過ぎに百蔵山山頂に到着、適度に登山者あり。晴れて気温が上がり、途中でネックウォーマーを外し、手袋を変え、R2を脱いだ。冠雪した富士山が美しい。持参したアンパンを食べ、扇山へ移動。結構な急斜面を下り、そのあと急斜面を登って2時間弱で扇山山頂到着。晴れて無風で暖かい。富士山もきれいに見える。北側には権現山へ向かう登山道がつながっている。30分弱頂上で休憩し、南斜面を谷に向かって下山し、鳥沢駅に到着。登山客らしき乗客が少なくなく、またも座れず。結局下北沢駅まで立ちっぱなし。交通費は片道千円弱。

 

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エマニュエル・ドットの思考地図

「人生というのは、学習とある程度の自由とちょっとした成功のための駆け引きと言えば、まあなんとかやっていけそうな気がするわけです。」(202ページ)

「道徳的枠組の崩壊の結果として見えてきたのは、個人というのがいかに小さく孤独かということでした。個人がお互いを真似し合い、監視し合っているのが今です。このような世界が『ポリティカル・コレクトネス』を生み出したのです。」(203ページ)

 

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「自由に老いる」海老坂武

副題は、「おひとりさまの あした」とある。エピローグによれば「老いたおひとりさま」にも「あした」はあるのだ。

 

備忘目的で、気になった場所をピックアップ

 

第一章21ページ、星雅彦氏の詩の一節が引用されている

 そこに生きる無意味があっても

 幸福を見出そうとする逞しさがあり

 チャレンジャーなのだ

 

第三章63ページ

 良くも悪くも、それは何かを求める旅、何かを得ようとする貪欲な旅であり、旅を単なる遊びとはとても考えられなかった。旅人は私にとって完成の錬磨で

あり、精神の豊穣化を意味していた。

 

同67ページ

 というわけで、私は今後もこの短い未来にこだわり続けるだろう。「人間とは企てである」という思考を身につけてきた実存主義の徒として、アレコの小

さな企てを試みていくだろう。ただ、十年という歳月を当て込んだ仕事はもう不可能なのである。

 

同74ページ

 私の場合、親友を求めなかったわけではない。ただ友情に恵まれなかったということだ。といってもそれは天の配剤に不正があったということではなく、私自身に欠けるところがあったからだ。

 

同85ページ

 若い世代のことはわかっていると思うな。文化の断絶があることを前提にして付き合うこと。大剣の継承ほど難しいものはなく、老から若へと伝えようとしてもダメだ。若が好奇心から老に赴くという形でしか伝わらぬ。

 

第五章138ページ

 (母の死により)しかし、悲しみとは別にポッカリとした喪失感が残った。それは愛の対象がなくなったというよりは、自分の一部が決定的に消え失せた、という思いである。生まれたときの私、幼い頃の私、小学校に入ったときの私、そういう私について私は何も知らないし、覚えていない。そういう私について語りうる人がいたとすれば、それは母であったろう。それも記憶がまだ確かな頃の母であったであろう。

 

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国際秩序

今年(2022年)2月末に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻が終わらない、終わる気配も見えないし、たとえ停戦が叶ったとしても、両国及びその周辺に平和が戻るまでに相当の時間と努力が必要だろう。

「力による他国への侵略は、国際秩序の根幹を揺るがすものとして、断じて容認できるものではない」というのが、「西側」の立場であるが、中国、インド、アジア、アフリカの国々(の首脳たち)は必ずしもそう思っていないようである。何故か?

アメリカ自身が何度も軍事力で他国の内政に介入しているではないか?「力」を軍事力に限定しなければ、アメリカの他国へ侵略度合いはさらに増す。

NATOの東進により、既存の安全保障の枠組みにチャレンジし続けてきたのは、アメリカを中心とするNATOの方ではないのか?

ロシアは今回の軍事侵攻により、国際社会での威信、影響力、ソフトパワー、力そのもの全てを急速に失いつつある。本質的にロシアと同じウクライナも、今後長きに渡って苦しいだろう。

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戦争

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻。実際に進行が始まるまでは、心のどこかでプーチンを支持していた。少なくとも彼の言い分も尤もなところが多いと思っていた。でも実際に戦闘が起こるとそんなことはどうでも良くなった。

マスメディア、SNSでさまざまな情報や意見が飛び交う。どれもこれも嘘っぽいか、軽薄に思われる。自分の意見を文章にしてみるが、これまた然り。

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