「自由に老いる」海老坂武
副題は、「おひとりさまの あした」とある。エピローグによれば「老いたおひとりさま」にも「あした」はあるのだ。
備忘目的で、気になった場所をピックアップ
第一章21ページ、星雅彦氏の詩の一節が引用されている
そこに生きる無意味があっても
幸福を見出そうとする逞しさがあり
チャレンジャーなのだ
第三章63ページ
良くも悪くも、それは何かを求める旅、何かを得ようとする貪欲な旅であり、旅を単なる遊びとはとても考えられなかった。旅人は私にとって完成の錬磨で
あり、精神の豊穣化を意味していた。
同67ページ
というわけで、私は今後もこの短い未来にこだわり続けるだろう。「人間とは企てである」という思考を身につけてきた実存主義の徒として、アレコの小
さな企てを試みていくだろう。ただ、十年という歳月を当て込んだ仕事はもう不可能なのである。
同74ページ
私の場合、親友を求めなかったわけではない。ただ友情に恵まれなかったということだ。といってもそれは天の配剤に不正があったということではなく、私自身に欠けるところがあったからだ。
同85ページ
若い世代のことはわかっていると思うな。文化の断絶があることを前提にして付き合うこと。大剣の継承ほど難しいものはなく、老から若へと伝えようとしてもダメだ。若が好奇心から老に赴くという形でしか伝わらぬ。
第五章138ページ
(母の死により)しかし、悲しみとは別にポッカリとした喪失感が残った。それは愛の対象がなくなったというよりは、自分の一部が決定的に消え失せた、という思いである。生まれたときの私、幼い頃の私、小学校に入ったときの私、そういう私について私は何も知らないし、覚えていない。そういう私について語りうる人がいたとすれば、それは母であったろう。それも記憶がまだ確かな頃の母であったであろう。